カルメル派修道女の対話

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あらすじ

 

第1幕

第1場

ド・ラ・フォルス侯爵の書斎。 書斎でうたた寝していたド・ラ・フォルス侯爵は、騎士ド・ラ・フォルスから、ブランシュの乗る馬車が群衆に取り囲まれて身動きできないとの知らせを聞き、ブランシュの身を案じていた。程なくしてブランシュは戻り侯爵は安堵するが、ブランシュはコンピエーニュの修道院へ入りたいと言い出す。

第2場

カルメル会修道院の応接間。 数週間後、ブランシュは、修道院長のクロワシー夫人に修道院へ入れて欲しいと頼む。修道院長は、修道院は世俗の危険から逃れるために入るものではないと咎めるが、ついにはブランシュを受け入れることにした。

第3場

修道院内。 ブランシュは、いつも明るい修道女コンスタンスに対し、修道院長が病身なのに不謹慎だと責める。コンスタンスは、修道院長のためならこの身を捧げても良いと返し、さらに、自分とブランシュが若くして同じ日に死ぬ夢を見たと語った。

第4場

修道院の病室。 死に瀕した修道院長は修道女長マリーを呼び、ブランシュを支えるよう頼んだ。入ってきたブランシュにも直接諭すが、ブランシュが退出した直後、修道院長は病の苦痛に耐えきれず錯乱する。ブランシュが再び入ってきたとき、修道院長は正気を取り戻し、そのまま亡くなっていった。

 

第2幕

第1場

礼拝堂。 ブランシュとコンスタンスは修道院長の棺の守番をしていた。時間が来て、コンスタンスは交代を呼びに礼拝堂を離れる。ブランシュは怖くなって扉へ向かうが、出くわしたマリーに棺から離れないよう咎められた。

幕前劇

修道院の庭。 ブランシュとコンスタンスは、修道院長の墓を花で飾り付けながら、次の修道院長に誰がなるか話をしていた。続けて、コンスタンスは、修道院長がなぜあんなに苦しんで亡くなったのか思案し、おそらく修道院長は他人の苦しみを身代わりに引き受けたのだろうと結論した。

第2場

参事会室。 リドワーヌ夫人が新しい修道院長に選ばれた。新修道院長は就任の挨拶をし、今後も神に祈りを捧げ続けるよう修道女らに語った。

幕前劇

修道院の廊下。 騎士ド・ラ・フォルスが、ブランシュを連れて国外へ逃げるために修道院を訪れた。修道院長はマリーの立ち会いの下、面会を許可した。

第3場

面会室。 騎士ド・ラ・フォルスは、父も心配していると告げてブランシュを連れ出そうと説得するが、ブランシュは、修道院に留まることを選んだ。騎士ド・ラ・フォルスが去った後、ブランシュは弱音を口にし、マリーの励ましを受けた。

第4場

聖具室。 政府によって聖務は禁じられた。修道院でミサを取り仕切った司祭は、修道院から離れ身を隠すことにした。修道女らは不遇を嘆き、マリーは殉教こそが国に信仰を取り戻す道と語るが、修道女長は殉教すべきでないと説く。 司祭が群衆に追われて修道院に戻ってきた。群衆は、修道院の門を開けるよう叫び声を上げる。修道女たちはこれを防ごうとするが、結局門を開けることとなった。群衆とともに修道院へ入ってきた役人は、修道院を解散させ建物を接収するとの命令を告げた。

 

第3幕

第1場

廃墟となった礼拝堂。 修道院長がパリへ行っている間、マリーの提案で殉教すべきか否かが無記名投票にかけられることとなった。反対票が1票だけあり、修道女たちはブランシュが投じたものと推測するが、意外なことに、反対票を投じたのはコンスタンスだった。しかし、コンスタンスは反対票を撤回すると宣言し、修道女たちは殉教することとなった。この間に、ブランシュは怖くなって修道院から逃げ出した。

幕前劇

修道院の外の通り。 戻ってきた修道院長以下、修道女たちは平服に着替える。役人からは、市民は常に見張っているとの警告を受けた。

第2場

旧ド・ラ・フォルス侯邸の書斎。 ブランシュは、群衆に占拠されたかつての自宅で、メイドとして働いていた。ある日マリーがやってきて、もっと安全な場所があると教え、ブランシュに住所を伝えるが、ブランシュは、ここが一番安全だと主張して、動こうとしなかった。

幕前劇

バスティーユ近くの路上。 ブランシュは、コンピエーニュのカルメル会修道院の修道女たちが逮捕されたという噂を耳にした。

第3場

コンシェルジュリ監獄。 修道女たちは、牢獄で過ごす初めての夜を迎えていた。修道院長は、何者も信仰を奪うことはできないと説き、また、自分も殉教の誓いに加わると宣言する。コンスタンスは、ブランシュが牢獄にいないことに気づくが、最後には必ずやってくると確信していた。 役人が牢獄に入ってきて、修道女たちが革命を転覆する企てをしたとして、その全員を死刑にすると宣告した。

幕前劇

バスティーユ近くの路上。 マリーは、修道女たちが死刑になると司祭から聞き、自分も殉教すべく刑場へ向かおうとするが、司祭から、あなたは命を長らえることが神の思し召しに従う道だと説かれる。

第4場

革命広場。 修道女たちは、「サルヴェ・レジーナ」を歌いながら処刑台へ向かい、一人ずつギロチンにかけられる。コンスタンスが最後の一人として処刑台に立ったとき、ブランシュが刑場に現れた。ブランシュは、コンスタンスがギロチンにかけられて途絶えた歌を引き継ぎ、「来たり給え、創造主なる聖霊よ」を歌いながら、コンスタンスと同じ日に命を喪った。

プログラムとキャスト

ラ・フェニーチェ管弦楽団 & 合唱団
指揮者: フレデリック・シャスラン
合唱指揮者: アルフォンソ・カイアーニ
演出: エンマ・ダンテ

 

ブランシュ・ド・ラ・フォース: ジュリー・シェリエ・ホフマン
マダム・ド・クロワシー: アンナ・カテリーナ・アントナッチ
マダム・リドワーヌ: ヴァネッサ・ゴイコエチェア

フェニーチェ劇場

 

フェニーチェ劇場(Teatro La Fenice)は、イタリア・ヴェネツィアにある歌劇場である。日本語でもしばしばラ・フェニーチェ(-座、あるいは-劇場)と表記される。開場は1792年5月16日。

イタリア語でfeniceは不死鳥を意味し(英語のphoenixに相当)、その名は1773年に火災で焼失したヴェネツィアの他の歌劇場の後継を自負して名付けられた。その後この劇場自体、1836年と1996年の2度にわたって火災により全焼したが、その都度再建がなされ、「不死鳥」の名にふさわしい歴史を誇る。

 

ヴェネツィアとオペラの関係は古い。1630年、モンテヴェルディの『略奪されたプロセルピーナ』Proserpina Rapitaがヴェネツィア総督モチェニーゴ・ダンドロの邸宅で行われた、とあるのがヴェネツィアの記録上最古のオペラ演奏である(同邸宅はその大部分が現存、ホテル・ダニエリとして利用されている)。17世紀には少なくとも16の歌劇場が競合するなど隆盛を極めていた。

 

サン・モイゼ劇場は1640年に開場、1818年まではオペラの定期公演が行われ、ヴィヴァルディやパイジエロなど18世紀のオペラ作曲家の新作が多くここで初演された。後にはオペラ・ブッファに特化した運営となった。ロッシーニのオペラ『婚約手形』La Cambiale di Matrimonio(1810年)や『ブルスキーノ氏』Il Signor Bruschino, ossia Il Figlio per azzardo(1813年)なども、当劇場の委嘱になる作品である。

サン・サルヴァトーレ劇場(後年1875年にゴルドーニ劇場と改称され現存)は1661年開場、ゴルドーニの戯曲の多くが演じられたことで有名だが、ここもまた18世紀から19世紀前半には有力なオペラ劇場であった。ジュディッタ・パスタがベッリーニ作曲『ノルマ』を演じた記録が残り、またヴェネツィアの劇場中最も早くガス灯による照明が行われた(1826年)。

 

サン・ジョヴァンニ・グリソストモ劇場はマルコ・ポーロの邸宅があったとされる一角に1687年に開場、フェニーチェ劇場の創建以前はヴェネツィアで最重要の歌劇場と考えられていた。この劇場はグリマーニ家という富豪の運営になる劇場のうちの一つであり、少なくともここヴェネツィアにあっては、入場料さえ払えば、身分に関係なく誰でもオペラを鑑賞できる最初の劇場となった。ヘンデル作曲『アグリッピナ』(1709年)は当劇場で初演された。1836年に当時の高名なソプラノ歌手、マリブランが28歳の若さで急逝したとき、前年に当劇場でベッリーニ作曲『夢遊病の女』La Sonnambulaを歌い大成功を収めたことを追憶するためマリブラン劇場と改称された。20世紀に入ってからは映画館に改装されたが、その後もしばしば小規模オペラの公演に利用され、また、後述の1997年からのフェニーチェ劇場焼失再建期間中は仮劇場の一つとして活用された。

 

グリマーニ家の歌劇場のうち、その内装の優美さによって18世紀後半にもっとも隆盛を誇ったのが1755年に創建のサン・ベネデット劇場だった。この劇場は席数1500の大規模なものであったが、1773年の火災で焼失する。劇場再建にあたって土地の所有者ヴェニエル家と劇場の運営者側との間に法的係争が発生、ヴェニエル家に有利の裁定が下った。その結果劇場運営者側は同地を去り、そこから徒歩10分足らずの近接地カンポ・サン・ファンティンに新劇場を建設することとなった。新劇場は火災(とそれに続く裁判)の困難に打ち克つという意味を込めて不死鳥=フェニーチェ劇場の名が付けられた(下記に詳述)。

 

なお、サン・ベネデット劇場は結局1787年にヴェニエル家によって単独再建がなされた(この際ヴェニエル劇場と改称された)。フェニーチェ劇場開場後の1813年に至っても有名なロッシーニ作曲『アルジェのイタリア女』Italiana in Algeriの初演がこのサン・ベネデット劇場で行われていることからみて、少なくとも一定期間はフェニーチェ劇場に伍する歌劇場としての地位を得ていたとみられる。なお、同劇場は1868年にロッシーニ劇場と再改称され、1925年からは映画館として使用されている。

 

輸送

 

水上バス
2行目:トロンケットから
リアルト橋、サンマルコとリドの方へ

ローマ広場やサンタ·ルチア駅から:ライン1またはライン2
リアルト橋、サンマルコとリドの方へ

停止します。リアルト橋、聖天使、聖サミュエルやサン·マルコ(ヴァッラレッソ)、ライン1を取る。
またはリアルト橋やサン·マルコ(ヴァッラレッソ)、ライン2を取る


マルコ·ポーロ空港からアリラグーナ公共交通サービス - リアルト橋やサン·マルコ(ヴァッラレッソ)にブルーラインにオレンジ色の線を取る

 

入り口

フェニーチェ劇場は、2つの入口があります。
- ステージドアは劇場スタッフと出演者のためであり、ドアマンによって有人されます。
- メインの入り口


エレベーター

ボックス、ギャラリーや家族の輪は、エレベーターを経由して到達することができます。

アクセス

劇場は特別なニーズのアクセシビリティに関してすべての法的規制に準拠しています。

Ufficio stampa Teatro La Fenice
© Fabrizio Sansoni - Opera di Roma 2022
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